能力を伸ばすためには

自分が教壇に立つと決めたときから、そのためには何が必要かということばかり考えている。
自分の能力の低さと日本社会の厳しさを考えたとき、教師に求められるものは子ども一人一人の能力を伸ばすということだ、という結論に達する。

能力を伸ばすには、いかにものごとを好きになれるかどうか、ということが重要である。
好きの中でも群を抜いたものが才能である。よく才能は天から授かったもの、人にはない特別な能力、などのように考えられている節があるようだが、実はそうではないと思う。どんな能力も生まれたときから備わっているわけではなく、開発次第でどうにでもなるものと私は信じている。その能力を開発するために必要なのが、能力とするものごとを好きになることだと私は考える。ものごとと、個々人の性格がマッチングし、その好きさ加減が尋常ではない時にそれは才能となるのではないか。
ではなぜものごとを好きになるとそれが才能となるのか。それは好きになると自らそのものごとに関する知識や能力を掴み取ろうとするようになるからだ。好きだから気になって気になって、しょうがない。大好きであるがためにその知識や能力を掴み取りたい欲求に限りはなく、無限大に広がってゆく。ものごとを猛烈に好きだという気持ちを動機づけにして「学ぶ主体」となるのだ。

才能にまで及ばなくとも、社会で生きていくためには誰しもが基本的な能力を伸ばす必要がある。先に述べたように好きになることが能力を伸ばすための必要条件であるが、放っておいたままで何でも好きになれるとは限らない。
まずはものごとに気が付かなければ始まらない。そのものごとに気づき、楽しい!面白い!という知的好奇心をくすぐられるような環境におかれていることが第一の条件だ。
また、ある程度の年齢まで周りにいる人々が手伝い応援するという環境があることも重要だ。手本となる存在や、ノウハウを伝授するような存在がいることも、好きという思いを継続させるための所要である。
つまり、生きていくための知識が集約され、すぐさまそれに触れられるような“気づきの空間”があることや、気づきを促し知的好奇心をくすぐるようなファシリテーターの存在がある程度の年齢まで継続的に必要だということだ。
私は、それが学校なのだと思う。ものごとを好きになり、知識を自ら掴み取っていくような「学ぶ主体」を育成することが学校や教師の存在意義である。

もし、気づきが強烈で、性格ともマッチしたゆえに猛烈にそのものごとを好きになれたとすれば、気づきがあった後の環境が整っていなくとも自分で能力を開発していくことができる。周りの人間がすべて敵に見えたとしても、それら逆境をすべて乗り越えてしまうくらいの情熱でものごとを追求する環境を自ら作り上げてしまうことも可能なのだ。それが才能の域に達しているということなのだと思う。

全ての子どもたちは能力を伸ばし才能をもてるような資質にあふれている。教師の仕事は能力を伸ばすための動機づけとなる面白さを子どもたちに伝えること、子どもがもつ性格を理解してさらに知的好奇心をくすぐり、もっともっと好きにさせることだ。
もうすぐ私の新たな挑戦が始まる。