靖国神社訪問


15日、靖国神社に行ってきた。
facebookに「靖国神社なう」と書いて写真をアップしただけで、このままではただの冷やかしに行っただけのようになりかねないので、行った感想をここに簡単に述べたい。

終戦記念日というだけあってすごい参拝者の数だった。
2m四方ほどの大きさの軍艦旗日章旗を掲げた人たちや、兵隊の仮装をしている人までいた。
神社の外だけれど、菊の紋章がついた黒塗りのワゴン社の屋根に「日教組粉砕」と書いてあったのには衝撃を受けた。
これは私の勝手な感覚だが、神社の中はまさに右翼の空気を感じる場であった。

黙とうが終わり、靖国に参拝する意味を明確に持ち合わせない私は参拝客を横目に資料館である遊就館に入った。
資料館に入るとすぐにゼロ戦の模型が目に飛び込む。その横には10代後半から20代の若い人が書いた資料館見学の感想が数枚並べられてあった。どの感想にも「この時代に戦った人たちがいたからこそ、今の日本があり自分があるのだと改めて気づかされました」という文があった。戦争に否定的な私はこういう同じ感想だけを選び取って閲覧できるようにしてあることに最初から違和感を感じずにはいられなかった。

資料館の内容は日本の建国の歴史を年表と資料とともにたどるような作りとなっている。大東亜戦争と書かれたあたりに来ると、遺書やitouchサイズほどの戦没者の写真がずらりと壁何面にも並んでいる。

一言でいうと、戦争の歴史がそこにはある。戦いがこの国を作り、守ってきたということを知らしめている。
この資料館をたどって、日本だけではないが、人間の歴史というのは国力増強のために侵略が繰り返されてきた歴史だということを改めて実感した。
戦争にどんな意見を持っていたとしても、私たちはその時代に得た利益、不利益、さらに利益と引き換えに相手に与えた損害の上に立って生きているのである。

ただ、この遊就館の展示や太平洋戦争の映像上映からのメッセージは、「この時代に戦った人たちがいたからこそ、今の日本がある。心より感謝と敬意を表しよう」と戦争を正当化するだけで完結している。
確かにその時代を必死に生きた、国のために戦い、死んでいくことが何よりの善行とみなされていた時代に生きた人たちを、大義を説いた責任をもって国が弔う必要は大いにある。靖国神社はそういう慰めの存在であると思う。
ただ、今に生きる私たちは靖国神社からのメッセージをそのまま受け止めるだけではなく、戦争の意味をもう一度考え直してみる必要はあるのではないか。

日本を敵国から守ったり、繁栄させるためには戦うしかないという考え方にのっとり続けてきた戦争。時に短く時に長く、繰り返されてきた戦争の歴史。
軍事力がものをいう時代においては当然の行いであったとは思う。先人たちが異国の侵略を防いだからこそ、日本は植民地とはならなかった。
しかし、これからは国と国が戦争によって競合していく時代ではないと私は思う。
なぜなら暴力からは暴力しか生まれないし、誰しもに人権があることを認め合えるところまで社会は成熟してきているはずだからだ。
また、ただ戦争はよくないと叫ぶだけでなく、具体的に何をもって国を守っていくのか一人一人が意見を持つべきだと思う。